2015年12月22日(金)、19時から開かれた『フォースの覚醒』の全世界同時公開に立ちあったあの瞬間を、何と言葉にすればいいのだろう。劇場のエントランスではコスプレをした人が続々と集まり、どことなく聞こえてくる会話からは各々が抱くSWへの愛が溢れてくるばかりでした。そして肝心の『フォースの覚醒』はというと、もう抜群に面白かったのです。ハッピーエンドで終わった作品の続編を描くということ、それをあの“スター・ウォーズ”(以下:SW)でやるという計り知れないプレッシャーを跳ね除けた今作は、シリーズの持ち味を改めてなぞりつつ、新キャラクターの魅力と彼らの物語で推し進んでいく、まさに新たなるサーガの幕開けに相応しい一作だったな、と。
自分の中でSWといえば新三部作のイメージが強く、ジェダイの騎士たちによるライトセーバーの華麗な剣さばきで育った世代なので、往年のファンの方々から聞くSWの面白さにピンとくるものがありませんでした。しかしこの『フォースの覚醒』を観たおかげで、その片鱗を理解することが出来たのです。惑星間をまたにかけた冒険、多彩なメカニック、人間も宇宙人も関係なく個性豊かなキャラクター、そしてフォースという未知の力…、ジェダイの騎士やライトセーバーはその単なる一部にすぎず、SWの魅力はあの世界観そのものにあることを教えてくれた。
その2年後に公開された『最後のジェダイ』は、シリーズの中でもかなり異質な作品だったな、と思います。正直なところ、物語の構成やストーリー運びの点で「これは、単なる報・連・相不足なのでは…?」「ここのくだりに時間を割く必要…あるのか??」などの、稚拙な部分があったのは否めないのかなあ、と。
ただ、自分としては『最後のジェダイ』はどうしても嫌いになれなくて、むしろ“推したい”作品です。赤い雪原を駆っていくスピーダ、帝国軍の軍勢の前に一人立ちはだかるルーク、レイとレンの共闘、歴代シリーズでは観たことがなかったシーン毎の鮮烈すぎる圧に心を奪われました。そして何よりも、スカイウォーカーという“血筋”からの解放へと向かったストーリー展開に、再び『スター・ウォーズ』という作品の物語が紡がれた本懐を感じたのです。
そして、公開されて既に一か月が経とうとしている『スカイウォーカーの夜明け』、遅ればせながら先日観に行って参りました。公開直後からファンの間で飛び交う感想はまさに賛否両論で、好きと嫌いがここまで両極に分かれているのかと思ったほど。そんな界隈での評判をなんとなーく薄目を開けながら知った上で臨んだのが今回のエピソード9なわけですが…
『スカイウォーカーの夜明け』鑑賞。物語が本当に完結した…しちゃったなあ…。というか内容云々の以前に、ストーリー運びや展開における緩急の付け方などの演出の数々が自分には合わなさ過ぎて観るのがきつかった…。しかし、長年のシリーズ完結編がこういう締め方になるのは、悲しいな…。
— かずひろ (@kazurex1215) 2020年1月13日
以下、作中の展開に触れたネタバレ有りの感想です。ご注意ください。
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ハッキリ言って、この完結編なら、観たくなかった…です。『最後のジェダイ』で拡がった物語はまるで何もなかったかのようにスッ…と消え去り、全ての物語や展開が“終わらせる”ために集結していく。この表現が適切かは分からないけれど、まさに無難。安定した軟着陸。たしかに全体を通して振り返った時に、この映画は“完結編”という役割を十分すぎるほど果たしてくれていたと思います。でも、これは往々にして、“観たかった”には繋がらなかったのです。
そんな内容についての不満をつらつら書き連ねてもいいのだろうか…いいのかな…
・『死者の口』ってどこから出てきたのか。ナレーション1行目から笑った。
・レイとポーとフィン、この3人がテンポよく会話するやり取りは見ていて楽しかったけど「今までそんなシーンなかったよな…突然やなあ…。」という感想。
・ローズは基地でおとなしくする感じですね、はーーなるほど。
・結局パルパティーンの血統かよ……結局かよ!!
・正義に目覚めたカイロ・レン、なんで夜コンビニに出かけるみたいな格好なの。
・パルパティーン、言ってることが1分後には変わるし、やってることもちぐはぐだし辛い。
・最後のキスシーン、よくあんなのぶち込んだな。まじで…まじでありえねえ…安直すぎるにもほどがある…。
・「私は…レイ・スカイウォーカーよ」→俺「(真顔)」
……このぐらいにしておこう。悲しくなってきた。
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そして自分が『スカイウォーカーの夜明け』を観ていて、内容よりも目についたのが、全体的な演出の面であり、もっと残念だったのはそのシナリオの転がし方ですよね。ストーリーについてはまだ百歩譲ったとしても、これがあのスター・ウォーズなのかよ……まじなのかよ……、ただただ「着地」させることに一点集中し過ぎて、その過程が蔑ろになっていたと思うんです。
例えば、チューバッカが死んだと思われたくだりも、物語のマクガフィンとして機能させるつもりもないのが透けて見えるというか…。チューイを死なせてしまった自責の念で泣いているレイ、その次のシーンで捕虜として実は生きていたことが判明。そして次のカットでまだレイは悲しんでいる。
観客の視点からすると、ここでレイが悲しんでいる状況が意味を持たなくないですか?チューイの生存を物語として引っ張るのであればまだしも、ばらしのタイミングが早すぎて、劇中のレイの悲しみが早々に意味を持たなくなったというか…。私はこのシーンで「めっちゃ泣いてるけど、チューイ生きてるよ。」って冷静な気持ちになりましたね。このニュアンスを何とか伝えたいんですけど、伝わりづらいですね…。
これは同様にC-3POの記憶が消えてしまう展開にも言えることで、雑だったよなあ…と。シスの暗号を読むために代償としてドロイドの記憶が消えてしまうのに、悲壮感が感じられませんでした(個人的に)。結局はR2-D2のバックアップで記憶が復活しました、良かったね~みたいな。
お馴染みのキャラを退場させる、それは『フォースの覚醒』『最後のジェダイ』でも扱われてきた演出で、『スカイウォーカーの夜明け』でもやって良かったと思うんです。ただ今作のそれは前2作に感じた、伝説ともいえる過去作からの「解放」、彼らを退場させてでも新たな作品を創っていく「覚悟」、みたいな気概が感じられなかったです。「お馴染みのキャラを退場させるよ、驚くよね。でも安心して、死んでないよーーー」と、そう言われているような気がしました。
他にも劇中音楽の使い方。前2作ではここぞのタイミングでメインテーマを流し、爆発的な盛り上がりを見せてくれました。『フォースの覚醒』ではレイが満を持してライトセーバーを手にするシーン、『最後のジェダイ』だとカイロ・レンとレイが一時的に手を組んでスノークの衛兵に立ち向かうシーン、思い出すだけで胸の奥がグッと熱くなる。しかし今回の『スカイウォーカーの夜明け』は、ひっきりなしに音楽が流れていた印象で、音楽からシーンを思い出すということが出来ませんでした。
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本当に終わってしまったのでしょうか。あの『スター・ウォーズ』の完結編がただただ自分に合わなかった、その事実だけが残ってしまったのです。夜明けとは……。
そんな『スカイウォーカーの夜明け』が教えてくれたことが一つだけあります。
それは、自分が思う以上に『スター・ウォーズ』が好きだったんだ、という事に気づかせてくれたことです。
悲しいなあ。今日も自分の観たかった”完結編”に想いを馳せていくのであった…。