本当の戦いはここからだぜ! 〜第二幕〜

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感想『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』それは10年間の軌跡にピリオドを打つ「覚悟」と「愛」の完結編。

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「凄い映画を観た。」という確信が持てる鑑賞体験は、久しぶりだった。

 

 

仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』

2011年に放送されていた「仮面ライダーオーズ」の10周年を記念して制作された作品である。「忍風戦隊ハリケンジャー」から始動した10周年の節目を祝うアニバーサリー作品は脈々と受け継がれ、ついに仮面ライダーの『オーズ』にその白羽の矢が立った。

 

 

東映のアニバーサリー作品はファンサービスの要素が強く、「あの頃」の雰囲気をいかに再現し、お祭り感をもって演出するかに重きが置かれている印象があった。特に戦隊モノであれば、ストーリーラインはそこそこに、当時のキャストが再演し集結することに意味があるというか、この企画が成立した時点で及第点には乗るというイメージ。

 

 

そういった背景を踏まえると、この『復活のコアメダル』の情報が流れた時に、不安しかなかったのである。どうして10周年という節目にこの作品が作られたのか。作られる「意義」は確かにあるのだろうか。特に『オーズ』の物語性を考えた時に、そこは慎重にならざるを得ない箇所なのである。

 

 

そんな一抹の不安を抱えながらも、公開日に足を運び、自分の目で確かめてきた。

 

というわけで、ここから先はネタバレ有りで感想を記しておきたい。

映画をまだご覧になられていない方々はご注意下さい。

 

 

 

www.toei-video.co.jp

 

 

 

 

 

 

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自分は圧倒的な「賛」の立場である。

ほんとに、よくやってくれた。

 

 

まず初めに不満点を先に述べておくと、正直なところ『復活のコアメダル』という作品がやりたかったテーマに対して、映像面と世界観の構築で追い付いていない部分がノイズになってしまうことが、しばしばあった。

 

まず、ストーリーの土台である「800年前のオーズが復活した」点については、この作品における舞台装置以外の何物でもなかったことが挙げられる。なぜ800年前のオーズが復活したのかという理由は分からないし、TVシリーズにおいても存在が何度も示唆されていただけに、突如現れて現代を混乱に陥れる以外の役割を果たさなかったことが非常にもったいなかった。

 

その800年前のオーズの手で、人類のほとんどが滅ぼされてしまうディストピアが舞台にもかかわらず、映像面での説得力に欠けてしまうのは、とても惜しかった。世界観の構築に対する細部の甘さが感じられたというか、普段見慣れている廃工場やコンクリの建物などのロケ地がたくさん出てくるし、前線に出て戦う時の衣装が一人だけ浮いていたり……。

 

ディストピアを描くという点では、劇場版ファイズの「パラダイス・ロスト」が原点の設定を逆手に取ったアプローチと、そこを描くための演出も含めてあまりにも巧みだったので、どうしても比較してしまう自分がいた。

 

kazurex1215.hatenablog.jp

 

 

コロナ禍という未曾有の状況、そもそも現行のニチアサを制作しながらのタイトなスケジュール。その上でオーズ10周年作品を湧出することが至難の業であることは、想像に難くない。この一度きりしかない10周年記念というタイミングで、どうしても完成させたかったという強い思いも感じる。

 

それでも、本音を言えば、例年の夏映画や冬映画レベルの規模で『復活のコアメダル』を拝みたかったなあ、と。この映画において最大の強烈なトピックを描くために、その他の要素は最小限に端折られていたので、画作りのチープさという面は拭えていなかったように思う。

 

 

上に記した不満点も含めて、何よりも制作上の「大人の都合」が露呈してしまっているので、普通ならこの時点で「楽しめなかった側」にいるはずなのである。それなのに、自分がこの作品にここまで熱を帯びているのは、『仮面ライダーオーズ』という物語の「その後」を描くという強い「覚悟」を感じたからである。

 

当時のオリジナルキャストをほぼ全員呼び、ついこの間まで放送されていたかのような空気感をまとっただけでなく、10年目の節目に「オーズ」という物語へ真摯に向き合った結果として、この作品は生まれたのである。

 

「その後」を描くべきだったのか、という点への是非はもちろんある。しかし仮にも描くとすれば、これしかないと思わされたし、賛否が割れると分かっていても、茨の道を進む舵を切ったことに、制作陣の強い「愛」を感じたのである。

 

 

 

この制作陣の「覚悟」を支えるために、茨の道を作り出す役目を担ったのが脚本の毛利亘宏であり、その功績は非常に大きかったと思う。毛利脚本の特徴として、モチーフになった作品のアイデンティティを捉え、その「魂」を改めて描きだす手腕に長けていると感じている。「ドライブ」のエピローグ編や、「ジオウ」のオーズ編が顕著だった。

 

 

上映時間も59分だったので、尺的に描写不足や消化不良に陥るのでは…という心配はあったが、杞憂だった。『オーズ』とは何だったのかを秒単位で追体験させ、キャラクターの絶妙な配置や置換から、作品を視聴していた時の記憶を想起させてくれる。この『復活のコアメダル』を観ている時に感じた「俺は今、『オーズ』を見ているんだ」という確信にも近い納得は、このおかげだろう。

 

その一助になっていたのが、新登場した人造グリードのゴーダであり、彼が立ち回ることで「オーズらしさ」への解像度がグッと高くなっていた。取り憑いた映司の欲望を叶えるために行うゴーダの「模倣」が浮き彫りにするのは、映司自身が心の奥で願っていた「欲望」であり、不服ながらも利害関係の一致で彼と共闘関係を結ぶアンク、そして比奈と共に瀕死状態の映司が助かる道を模索し、伊達と後藤はゴーダの腹の内を探ろうとする。

 

 

自分の思う『仮面ライダーオーズ』の面白さとは、「欲望」によって翻弄されていくドラマなのである。「欲望」というのは結局エゴの塊でしかなく、本人次第では善にもなるし悪にも変わるので、単純な二元論で語ることはできない。それゆえに味方だった者が急に刃を向けてくることもあるし、敵同士でも一時的な共闘関係を結ぶこともある。人間もグリードも一枚岩でいかないからこそ、先の展開も腹の内も読めない緊迫感に満たされたドラマが展開されるのだ。

 

 

TV本編でも伊達がドクター真木に協力したり、終盤にかけてアンクがグリード側に寝返ったことも、視聴していた当時はその顛末をハラハラしながら追いかけていたことを今でも思い出す。「欲望」が軸となって展開されるドラマの中で、メダルもオーズもグリードも、その枝葉の一つでしかない。だからこそ、時にドライかつシビアであり、エモさで爆発することもある。

 

 

ぶっちゃけてしまうと、この10年間における映司とアンクの客演については、思うところが多かった。枝葉の一つだと思っていた二人のバディ要素が強めに押し出されていったというか、その結実したものが「平ジェネFINAL」だったと思うので、あの映画の演出に感動はすると同時に、過剰ともいえるウエットな演出にヒヤヒヤしてしまったのだ。いや、分かるよ。分かるんだけど、うーん……といった感じで。

 

 

 

しかし、『復活のコアメダル』がその10年間で抱えていたモヤモヤを、全部振り切ってくれた。むしろこの為の助走だったのかと思うほどに、キャラクターの行動にも納得しかなかった。

 

そんな霞を振り払うかのごとくぶち込まれた、今作最大の強烈なトピックとは、"火野映司の死"である。これこそ自分がこの映画で最も賛辞を送りたい要素なのだけど、これが同時に、この映画で賛否両論を巻き起こしている要素でもある。しかしこの強烈なトピックを咀嚼し、自分の中に落とし込もうとした時に、ある作品が自分の中で思い出された。それは「アベンジャーズ エンドゲーム」におけるトニー・スタークの最期である。

 

サノスとの最終決戦の中、ストレンジの予測する何百万通りのパターンから、唯一人類を救えるのはこの選択しかないことを伝えられ、トニーは自分を犠牲にしてインフィニティ・ストーンを発動させる。キャラクターを生かすも殺すも、作り手の意志次第でどうにでもなる。だからこそ、その選択にどれだけ納得感が生まれるかどうかに尽きるわけで、『エンドゲーム』におけるトニーの選択とその展開は、非常に合点がいくものだった。

 

自死をもって戦いを終わらせるというトニーの「覚悟」と、どこまでも戦い続けることを選ぶであろうアイアンマンという役割からの「解放」、メタ視点ではMCUを10年間引っ張ってくれたことへの「労い」。これらを総じて彼を最終決戦で散らしたことで、トニー・スタークという存在を「永遠」のものとしたのだ。

 

 

『復活のコアメダル』における火野映司にも、この構造が当てはまるのではないかと思っている。そもそもの火野映司というキャラに対する解釈の話になるのだが、彼は世界中を旅していくその先々で、これからも困っている人々に手を差し出しては救っていくだろうし、自分の手が届く限りその行為を辞めるつもりもないと思う。

 

「手が届く限り誰かを救いたい」という思いもまた「欲望」の一つであり、そこに一種の狂気さえ孕んでいた。その延長線として、どうしても彼が天寿を全うするイメージが湧かないというか、それこそ誰かを救うために、自分の命を平気で投げ出すビジョンさえ浮かんできてしまうのである。

 

また、アンクの復活は彼にとっての切願であり、人生をかけて成し遂げたいことなのである。これは言うまでもなく、映司にとってのアンクがアンクにとっての映司であり、彼らにしか理解し合えない相互関係で成り立っているから。これを説明するのは野暮になってしまう。

 

 

よく目にした意見として、映司の身体にアンクが取り憑き、二人で旅を続けていくエンドでも良かったのではないか、というのがある。確かに理屈としては実現できるし、劇中のアンクも迷わず同意するだろう。でもそれは映司の願う”アンクの復活”ではない。アンクがその命を宿し自分の足で歩き、手で触れアイスを食べることに意味があるし、グリードに変貌した経験も踏まえて、満たされない欲望の辛さや、命を得ることの尊さを、誰よりも理解しているからこそ、映司はその選択肢を選ばないだろう。

 

 

 

アンク自身の人生を歩ませるために死ぬことを選んだ映司の「覚悟」、あの日救えなかった少女を今度こそ救わせる「解放」、最期にアンクや比奈たちに看取られる場を与えることで花道を飾ろうとする制作陣からの「労い」。彼の人生をここで終わらせることで、他の誰にも何物にも触れさせない「永遠」の存在へ火野映司を昇華させたのだ。



 

 

 

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ヒーロー同士のクロスオーバーという点で、東映MCUをよく例えに挙げては、冗談交じりで比較しがちなのだけど、まさかここにきて東映MCUと同じ水準の「覚悟」をもって物語を完結させてきたことに、正直とんでもなく驚いた。ハッキリ言って、今の東映にこれを成し遂げる度胸が残っていたのか、と。



ただ、やはり『復活のコアメダル』という作品の与える衝撃は、そう簡単に受け止めきれるものではないだろうし、自分にとって『オーズ』が、当時楽しんでいた作品の一つという距離感だからこそ、冷静に観ることが出来たのかもしれない。例えばその人にとってオールタイムベスト級に人生を変えてくれたコンテンツであれば、理解は出来ても納得はいかないだろうし、簡単に受け止めきれる物量ではないとも思う。

 

 

でも、この作品の描いた結末は、決して『オーズ』という作品を軽視した結果ではない。『オーズ』という作品およびその美しい最終回を真摯に受け止めて、最大限に尊重した上で生み出されたのが『復活のコアメダル』なのだと思う。

 

何回も言うけど、よくやってくれた。

これを完成させてくれた制作陣に敬服の想いしかないのである。

 

 

仮面ライダーオーズ』本当にお疲れさまでした。

素敵な10年間をありがとう。