本当の戦いはここからだぜ! 〜第二幕〜

好きなものをどんどん語ります

感想『シン・ウルトラマン』60年の時を越えて溢れ出す「純愛」と切なる一つの「誓い」

 

 

 

2016年7月29日、それは「シン・ゴジラ」の公開日。自分は大阪エキスポのIMAXレーザーにいた。この映画を観て抱いた「何なんだこれは……」という感想を一生忘れることはないだろう。前情報も無くひた隠しにされていたゴジラの形態変化、日本ならではの政治活劇、官民を巻き込んだリアルシミュレーション、一癖も二癖もある個性的な登場人物とアニメ的な演出、そのどれもが今までのゴジラシリーズにはない全く新しい作風であった。界隈も騒然、世間も騒然となり、興行収入が80億円を超える大ヒットを記録した。

 

 

 

 

 

そんな一大ムーブメントを作り上げた制作スタッフが次に挑んだのは、地球に降り立つ銀色の巨人の物語。その名も『シン・ウルトラマン』。製作が発表されてからコロナ禍による公開延期、例によってなかなか情報が解禁されないもどかしさを越えて、無事に公開日が決まるまでの3年間。本当に長かったなあ、と。

 

 

私は「ウルトラマン」を始めとしたウルトラシリーズの大ファンである。TDGの平成三部作に心を奪われて以来、アラサーも近づく年齢になったがその半生をウルトラシリーズと共に歩んできた。現行のTVシリーズが9年連続で放送されることも決定し、玩具の売れ行きも好調という最も波に乗っているこの時期に、大規模なプロジェクトの元にウルトラマンの大作映画が公開される。それも「一般向け」の作品である。

 

 



これをどうして平常心でいられようか……。大作映画の看板をウルトラマンが背負う日が来るなんて。しかしもしも面白くなかったら……全くヒットせずに上滑りしてしまったら……いや最悪自分に刺さらなくてもいいから売れてほしい……そんなことばかり頭の中をぐるぐる駆け巡る日々。

 

 

 

しかし腹を括って劇場で鑑賞。

その熱が残っているうちに感想をブログに残しておこうと思う。

 

 

(以下『シン・ウルトラマン』のネタバレを含みます。ご鑑賞予定の方はご注意ください。)



 

 

※※※※※※※※



 

 

 

 

 

 

 

 

めちゃくちゃ面白かった!!!

 

 

 

 

その全てに諸手を挙げて称賛することは出来ないし、どうにも拭えない不満点だってある。しかし、60年の時を越えて「ウルトラマン」を現代に復活させてくれたことへの感慨深さ、私達がなぜウルトラマンを愛しているのかというプリミティブな感情、これらを思い起こさせてくれたこの映画を、私は愛したいのである。

 

全編に渡って満ちているのは、「ウルトラマン」への愛。いや、迸りすぎて溢れだしているそれは「純愛」である。「シン・ゴジラ」が予測のつかない魔球を投げてきたのだとすれば、『シン・ウルトラマン』はド直球のド真ん中ストレートを豪速球で投げつけてくるような、そんな作品だった。驚いた。そこまで忠実にやるのか、と。



そこに「シン・ゴジラ」で培われた独特なカット割りや膨大なセリフの応酬、制作陣が生粋のオタクだからこそ成し得た拘りの数々、それらが組み合わさったおかげで紛れもなく今までのシリーズとは一線を画す作品が生み出された。言ってしまえば、究極の二次創作ともいえる作品が東宝・円谷・カラーの共同制作の大作邦画として世に放たれたのである。

 

 

ハッキリ言って、まじでヤバい。



そんな制作陣からの愛を込めたストレートは、冒頭のオープニングからその頭角を示す。例の音楽が流れ、渦巻きを描き現れるのはシン・ゴジラの文字。そこから突き破るように出てくるシン・ウルトラマンのタイトルロール。そこから間もなく矢継ぎ早のカットとテンポで「ウルトラQ」の怪獣たちが現れる。”シン”化したゴメス、ペギラ、パゴス…etc、これらの怪獣が息づく姿を見られたのは嬉しいサプライズであった。



製作面でかなり難航していたと推測される映像面に関しても、かなり成功していたように感じる。ウルトラマンのスーツに感じた独特のシワを宇宙人の肌艶として落とし込んでいたし、着ぐるみ感が削ぎ落とされた怪獣や外星人は、より生物というナマモノが動いている臨場感を十二分に感じられた。成田亨氏が描いた「ウルトラマン」の原典とも言うべき美しさと畏怖の念すら抱かせるデザインの数々が、やっと実写で表現できる時代に突入したことを、あらためて実感させてくれた。

 

 

 

 

ストーリーの大まかな流れとしては、原典の「ウルトラマン」から5つのエピソードが採用されている。王道の怪獣退治を描くネロンガガボラ戦、偽物を演じて人類に揺さぶりをかけるザラブ星人戦、非暴力に訴えた知性と謀略で挑んでくるメフィラス星人戦、そしてウルトラマン最後の敵として立ちはだかるゼットン戦。様々な怪獣との戦いを当時のオマージュたっぷりに描きつつ、外星人からの侵略行為をもって「人間とウルトラマン」の関係性を浮き彫りにする。それらが結実した先にゼットンという最大の敵が現れ、この未曾有の危機に彼らがどう立ち向かうのか。



原典の「ウルトラマン」は前・後編ものの例外を除くと、1話完結のオムニバス方式で制作されている。怪獣や異星人を中心とした出来事が発生し、そこに科学特捜隊が対応するも、どうにもならなくなった時にウルトラマンが登場する。後年続いていくウルトラシリーズにもこの方式が踏襲されたように、この偉大なる「型」はすでに初代で確立されていた。



単発で成り立っていたエピソードを一つにまとめ上げようとすると、やはりダイジェスト版のようになってしまうが、自分はこれを好意的に解釈している。一つの事件だけでなく様々な怪事件に対応していくのが、SFオムニバス的な面白さを持つ「ウルトラマン」という作品の魅力であり、引き出しの多さを示しているからだ。その原典へのリスペクトを込めつつ、映画的に落とし込んだ場合の描き方としては最適だろう、と。



一番の見せ場となる戦闘シーンも、あえて奇をてらうことはしない。宮内國郎氏の手掛けた劇伴をたっぷりと流し、放送当時に描かれたあの戦いを時にオリジナリティ溢れるものへ、時にオマージュが溢れた演出を加え、現代にアップデートさせて描いていく。スペシウム光線ネロンガを山肌ごとぶち抜いて撃破すれば、突進するガボラと存分に繰り広げる怪獣プロレス、原典そのままに描かれるメフィラスとの攻防戦、ウルトラマンが光線技だけでなく多彩な技をもって数多の怪獣や異星人と戦っていたことを、真正面から描いてくれたのが嬉しかった。

 

 

 

遊星から来た兄弟 勝利 (M5) [『ウルトラマン』より]

遊星から来た兄弟 勝利 (M5) [『ウルトラマン』より]

  • スタジオ・オーケストラ
  • サウンドトラック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

(↑特に心からアツくなったのはザラブ星人との戦い。地面をぶち破って現れるウルトラマン、夜の市街地を飛び回る空中戦、どれも原作へのリスペクトに溢れながらこの劇伴が流れているのだ。最高。最高of最高。これを劇場の大スクリーンと音響で観ることが出来たのは本当に幸せだったな、と。)



 

 

 

※※※※※※※※

 

そんな「ウルトラマン」が過ぎる数多のリスペクトだが、これは反転して悪手にもなりえるなあ……とも感じたのが正直なところである。ストーリーの運び方を取ってみても、ダイジェスト的な流れは散漫的であると言えるし、小さな起承転結が続くのでぶつ切り感は否めない。相対する敵が一つ一つ切り替わっていくことも、そこに拍車をかけているのだろう。

 

そうしたダイジェスト的な話運びの弊害として、特に神永斎藤工と浅見長澤まさみのバディが信頼を築き上げるまでの過程が、分かりづらいきらいがある。どうしても物語の波が単調なため、登場人物の心情変化を追いづらい。(有岡大貴)ゼットンを前に人類の科学力が及ばないことに絶望するも、もう一度希望を信じて立ち上がるドラマを引き受けているのが良かっただけに、メンバーの船縁早見あかり班長の田村西島秀俊が記号的な役割にとどまっていたのは惜しかったなあ、と。



先に記述したように劇伴で度々使われた「ウルトラQ」「ウルトラマン」のBGMに関しても、オタクである自分は心の中で両手を広げてガッツポーズを決め込むくらいに歓喜していたが、一方で半世紀前の楽曲を初めて聞く人が”古臭い”と感じてしまわないだろうか……など。知っているかどうかが楽しめるか否かに直結する、オタクの好きな小ネタ要素が多すぎるのである。



中には明らかにいただけないシーンもあった。長澤まさみ演じる浅見弘子については、制作陣のフェティシズムに溢れすぎていて、やはり時代錯誤感が否めなかった。自身を鼓舞するために何度も挟まれるあのカット、匂いを執拗に嗅がれてしまうシーンや、あれは無くても良かったと思う。「禁じられた言葉」でフジ隊員が巨大化したシュールな笑いを今回も再現したかったという意図は理解できるが、だとすればパンツスーツで良かったのではないか、と。

 

 



 

 

総合的に見てもこの映画は、完成度の高い作品とは言えないだろう。ハッキリ言って「シン・ゴジラ」の方が何倍もエンターテイメント作品としての精度だって優れている。楽しめた自分でさえも、悪かった部分や不満点について挙げだせば際限がなくなることは目に見えている。しかし、それでも自分はこの映画を愛したいのである。

 

その答えは一つ。

 

ウルトラマンが愛してくれたような人間に、私達がなろうとする愚直なまでの「誓い」が込められているからだ。



自らの命をなげうって他の生命を救おうとする行為に心を打たれたウルトラマン=リピアは、禁止行為とされる人間=神永新二との融合を果たす。神永と同化し相棒の浅見や禍特対の面々と交流する中で、人間の素晴らしさと愚かしさの両方を知っていく。ザラブの策略で正体が露呈し逃亡者の身になっても、彼の対になる存在としてメフィラスから共闘を持ちかけられても、人間を守る道を選択する。さらに光の国の使者であるゾーフィに裏切り者の刻印を押されてしまっても、地球を処分しようとする決定に反逆する。無謀だと分かっていてもゼットンへ立ち向かい、ウルトラマンは人間を信じることを諦めない。

 

 

どうして彼は人間の味方でいてくれるのか。

 

なぜ人間という小さな命に肩入れするのか。

 

そこには”ウルトラマンには人間を好きでいてほしい”という、制作陣の思いが込められているからだろう。自分の故郷を捨ててまで、宇宙の辺境にあるちっぽけな星を救うほど人間を愛していて欲しい。「ウルトラマン」で育てられた庵野秀明樋口真嗣、その他のスタッフ達による一種の祈りに近いものを、そこに感じ取った。あまりにも無垢で、汚れのない祈り。

 

しかし、人間はウルトラマンに縋るだけでいいのだろうか。

 

頼り切ってしまって良いのだろうか

 

ゼットンとの圧倒的な戦力差の前にウルトラマンは敗北するが、人間の力を信じて最後まで抗う意志を示す。ここで神永の語るあのセリフに心をぐっと掴まれてしまった。

 

 

ウルトラマンは万能の神ではない。君たちと同じ、命を持つ生命体だ。」

「僕は君たち人類のすべてに期待する。」

 

 

これは2006年に公開された映画「ウルトラマンメビウスウルトラ兄弟」において、光の国のルーキーであるメビウスウルトラマンが語りかけるセリフと酷似している。

 

「我々決してウルトラマンは、決して神ではない。どんなに頑張ろうと救えない命もあれば、届かない思いもある。」

 

ウルトラマンは神ではない。己の無力さに打ちひしがれる時もあれば、無理解に苦しむときもある。だからこそウルトラマンもまた人間と同じひとりの異星人であり、対等な存在なのである。最後の希望として禍特対は神永の残した逆転のピースを手に、人類の叡智を結集する。ウルトラマンでは導けなかったベータシステムの技術応用。それを元にゼットンへ立ち向かう時に、初めてウルトラマンと人間が肩を並べることが出来たのだ。

 

 

 

 

 

 

※※※※※※※※

 

”人類の平和は、我々人類の手で守っていかなければならない。”という原典の「ウルトラマン」が打ち出したメッセージを汲み取るのであれば、正直クライマックスの展開はそのインパクトに欠けてしまうだろう。せめて逆転のヒントだけでも、禍特対に見つけてもらいたかったのが本音である。

 

それでも「ウルトラマン」に育てられた者たちが、再び熱烈な愛を持って『シン・ウルトラマン』という作品を創り上げたこと。そこにはウルトラマンが信じてくれた私達に、「君たち人類のすべてに期待する」と投げかけてくれたその言葉に、胸を張って誇れる人間になろうとする「誓い」が存分に込められているのである。ここまでやってくれた彼に報いるような人でありたい。愛されるような人間であらなくてはならない。そんな切なる祈り。この真っ直ぐな「誓い」に心を打たれてしまった。




 

この映画を自分は楽しめた。しかしこれが世間ではどう受け取られるのだろう。一度息絶えそうになったウルトラシリーズが、地道に人気を取り戻し再建され、この舞台にまで上り詰めた。もしもこの映画がしっかり数字という結果を残してくれれば、「ウルトラマン」というコンテンツはさらなる発展に繋がっていく。一介のウルトラオタクとしては、それを願わずにはいられない。しかし、これから『シン・ウルトラマン』を観た人たちがどういう感想を抱くのか、それもまた楽しみなのである。賛否両論どちらがあってもいい。面白くてもつまらなくても、多くの人が銀色の巨人との邂逅を果たしていくことが嬉しいのである。

 

さあ、どうなる。





 

最後にひと言、この映画に送りたい言葉がある。




 

 

 

 

こんなにも好きだったよ、ウルトラマン

 

M八七

M八七

  • 米津玄師
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes