14年振りに制作された続編かつ新たなる三部作の幕開けを飾ったのが、「ジュラシック・ワールド」だった。シリーズ4作目の正統派続編という立ち位置にありながら、全ての原点となる1作目のリブートも兼ねつつ、過去作への細かなオマージュも散りばめられており、まさに奇跡的な完成度の一作だった。旧作に足りなかった箇所を補強し、ストロングポイントはより発展させていく。その志の高さで例えるならば、あの傑作「トップガン マーヴェリック」に並ぶものがあると感じているくらいに本当に大好きな一作だ。
続いて公開されたのが、シリーズ5作目となる「炎の王国」である。閉園後の島に残された恐竜達をなんとか救ったものの、究極の決断を迫られた人類は恐竜を人間社会に放ってしまう。かつて食物連鎖の頂点にいた恐竜、そして現代の支配者たる人類が、時代を超えて一つの世界に共存してしまうという衝撃のラストで幕を閉じたのだった。「炎の王国」はその一作のみで評価を下すのが非常に難しい作品ではあったが、この挑戦的な姿勢に惹かれるものがあったし、大胆に広げた風呂敷をどうやって畳むのかにこそ、『ワールド』シリーズの真価を見極めるときなのだ、と。
その完結編をもって、この物語がどう締めくくられるのか。そんなシリーズ6作目『新たなる支配者』を任されたのは、「ジュラシック・ワールド」のメガホンを取ったコリン・トレボロウ監督。そして旧シリーズのキャストも登場し、まさにオールスターを揃えて、25年続いたシリーズの幕引きへ準備が整えられていく。まさに完結編としての舞台装置はしっかり整えられていたはずなのに、はずなのに…………。
※以下、ネタバレありで記します
非常に困惑している。
自分は一体何を観たのか。
これが完結編だったのか。
“これで「ジュラシック・パーク」シリーズは25年の幕を閉じるのか……。”
そんな言葉がずっと頭から離れない。
真っ先に浮かんできたのは、「スカイウォーカーの夜明け」である。「スター・ウォーズ」の9作目であり、旧三部作・新三部作に続く続三部作の完結編としてシリーズを総括させる役割を担っていた。前作「最後のジェダイ」で、ついにスカイウォーカーの血筋から解き放たれたこの物語が、"何物でもない者"たちを軸に、どのようにして銀河の命運をかけた戦いに身を投じていくのか。誰もが予想だにしない完結編に向けたフックを残したことで、「最後のジェダイ」はその賛否両論を大きく巻き起こしたことが記憶に新しい。
しかし公開された完結編は、どうであっただろうか。
開かれた物語は大きく軌道修正され、結局またスカイウォーカーの血筋へと回帰していく。投入された新しい要素やキャラクターに大きな動きが与えられることはなく、「スター・ウォーズ」シリーズに求められるエンタメ要素だけが抽出されていくばかり。既視感のある冒険活劇、銀河を超えた仲間との絆、そしてダークサイドとの決着、確かにそのどれもが馴染みのある展開であった。しかしそれが意味するのは、上辺だけをなぞり”終わらせるために終わらせた”という事象のみ。そのあまりにも無難な出来栄えに、続三部作が製作された志や熱意は、まるで感じられなかった。言葉を選ばずに言うと、失望さえした。「スター・ウォーズ」という超大作の看板を背負っても、このような終わりを迎えてしまうのだと。
(↑当時書き記した「スカイウォーカーの夜明け」感想。2年半経っても未だにこの時の気持ちと変わりはない)
そんな映画体験を与えてくれた作品と同じ感想を抱いたのである。
軟着陸。
終わらせるために終わらせた。
これに尽きる。
『新たなる支配者』という作品が一番に目指すべきだったゴールは、人間と恐竜が同じ時代に同じ世界で暮らしていくことへのアンサーだったと感じている。「炎の王国」が提示した両者の世界線の融合がもたらす化学反応は、何をもたらして何を奪い、その果てにどんな世界が待っているのか。そこをもっと掘り下げて欲しかったのである。日常に恐竜が平然と生きている非日常を体感したかったからこそ、公開前に解禁された映像はその最たるものだった。冒頭のニュース映像を通して描かれた世界各地の混乱にこそ期待するものが観られたのだが、これも結局プロローグだけでさらっと流されていくだけ。
(↑劇場公開前に公開されたプロローグ映像。これが本編でも冒頭にお出しされると思っていたのだが……。このティラノサウルスは最高にかっこいい。)
(↑キャンプ中の家族が恐竜同士の戦いに巻き込まれる10分ほどの短編。こうした日常が非日常に変わってしまう恐ろしさが観たかった。まさか本編よりこっちの方が満足度高いなんて……。)
そうした化学反応も、ただ混乱に陥るのだけではなく、自然と共生する延長に人と恐竜の共存が成し得た可能性だってあり得たのではないか。社会の歯車の一つとして労働の一助に恐竜を使役したり、負の側面として恐竜の密輸や違法な売買もある(その点では劇中に登場した地下闘技場や闇市は良かったと思う)。人間がパニックで右往左往するだけではなく、人間と恐竜の共存の中で生まれるあらゆる可能性を描いてほしかったのである。
しかし、その中身を紐解いていくと、やっていることは過去作の焼き直し。放たれた恐竜は保護区で管理されており、新たなバイオテクノロジー社「バイオシン」が台頭する。そして突如発生した謎のイナゴによる世界的な食糧危機を防ぐために、裏で手を引く「バイオシン」の打倒とその鍵を握るラプトル=ブルーの子どもを救うために、新シリーズと旧シリーズのキャスト達が共に立ち向かう。この時点で人間と恐竜の共存というテーマは、一旦端においてけぼり。悪い方のデウス・エクス・マキナのような登場は、ハッキリ言って論点のすり替えに近い。
そんなイナゴへの打開策をストーリーの軸に据えながら、シリーズに求められるアクションノルマをこなしていく。アトロキラプトルとのバイクチェイスや飛行機を襲うケツァルコアトルスとの空中戦、他にも恐竜は沢山出てくるので映像的なテンションの高さは感じられた。
過去作へのオマージュもふんだんに散りばめられており、新旧キャストが手分けして脱出を図るために協力するのは、「パーク」の一作目を彷彿とさせてくれる。マルカム博士による焚き火の誘導は今回のギガノトサウルスへ有効な一撃となるし、クレアとサドラーが電気室へ向かうのも、グラント博士とオーウェンが声を揃えて「動くな」と言うシーンも期待通りである。
しかしどれもこれも、焼き直しの域を超えないのである。チェイスシーンは「ジュラシック・ワールド」におけるラプトルとの並走シーンの衝撃がデカかったし、あのレベルのアクションは想像の範囲内だと思う。空中戦に関しては「パーク3」のプテラノドンが制空権を得ていた時の段違いの恐怖を超えられていただろうか。歌舞伎役者のような立ち回りで、シリーズに華を添えてきたティラノサウルスやモササウルスはどうだったか。モササウルスはまだ良かったとしても、正直ティラノサウルスが格好良く映っていればまだ救われたのだが、クライマックスで繰り広げられた決戦シーンで、自分の心は完全に機能停止してしまった。詳しく書くのさえ拒絶したくなるほど、シリーズ最悪の出来である。なんなんだあれは。
ジュラシック・ワールド新たなる支配者、不満は抱きながらも良いところもあったと思いつつ観ていたけど、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ https://t.co/3Qrp6L5U9y
— かずひろ (@kazurex1215) 2022年8月16日
(↑詳しく書くのは拒絶したけど、ふせったーにぶちまけたやつ)
肝心のオマージュに至っても、その演出に乗るべき文脈の流れが感じられなかった。「このメンツでこれをやればエモいよね????」「あのキャラが数年越しに同じ構図でアレをやるんだよ、エモいよね????」そうしたファン心理をドヤ顔で掴んだような気になっているというか、制作側の顔が浮かんでくる。クライマックスの新旧キャストが入り交じる展開は、やりたい演出が先行しすぎてダレている感覚さえ覚えてしまった。
そもそも、このストーリーラインで良かったのだろうか。恐竜が人間社会に溢れてしまう原因を作ったのは、オーウェンやクレア、そしてデイジーである。山奥での隠遁生活も想像はできるが、世界全体の仕組みを変えた彼らには、相応の禊(みそぎ)が必要だったのではないだろうか。恐竜を逃してやるという行為は、純粋に言えば「恐竜が好きだという純粋な気持ち」に突き動かされた結果であるし、なにも断罪されるべきだという意味ではない。その帰結自体は好きである。ただその一方で、自らの行為に対する懺悔であったり、あの時の決断について思い悩むシーンの一つでもあれば、彼らへの感情移入もまた違っていただろう。キャラクターに自身の行動を振り返らせないのは、非常に盲目的であると感じる。
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「ジュラシック・ワールド」に連なる新三部作は、どこまで構想が描かれていたのだろうか。何をテーマに据えるところから始まったのだろうか。「ジュラシック・パーク」が公開当時に与えた衝撃を、もう一度復古させる意図はあっただろう。そのおかげで「ジュラシック・パーク」シリーズの作品群は再び脚光を浴びることになったわけだし、シリーズの新作が劇場で鑑賞できる体験こそに意味があったとも思う。
しかし、閉じられた作品に続編を作るのであれば、それを描くための確固たる意義を持って欲しい。本来であればハッピーエンドで終わるはずの世界に、その続きを描く。描かなければ死ぬことはなかったキャラも居るし、そのキャラの人生を奪ってまでも物語を紡いでいく覚悟が必要なのである。「スター・ウォーズ」にはその覚悟を「最後のジェダイ」までには感じたが、残念な結果に終わってしまった。没になったコリン・トレボロウ案であれば、その意志が最後まで貫かれていたかもしれない。
今回の『新たなる支配者』は、「スカイウォーカーの夜明け」ほど制作過程の苦労や事情が流れてくることが、現状では今のところ観測されていない。今後ボツ案が別にありましたという証言があれば、自分の抱いたやるせない気持ちにもピリオドが打てるかもしれない。
しかし、もしかすると、これがこの映画の辿り着きたかった答えであるならば。完成された作品を考えると、やっぱり悲しい。これは邪推でしかないが、もうやれることが無くなってしまったのではないかと思っている。前二作を超えるようなシーンや演出、そして落とし所。迷走してしまった結果として、軟着陸に落ち着いたのだと。イナゴの解決策に再び遺伝子組み換えを行ったイナゴで解決するというのは、生命の創造という倫理観が一周回ってここまできたのかという謎の感慨深さがある。
人と恐竜の共存は、ラストのエピローグで一分ほどのナレーションと共にダイジェストされていく。パラサウロロフスと草食動物が草原を駆け回り、翼竜の群れが鳥たちと大空を羽ばたいていくし(翼竜は雑食だと言われているのでもちろん鳥も捕食対象です)、大海ではモササウルスとシロナガスクジラが共に泳いでいる(モササウルスは肉食恐竜なので鯨も食べます)。そのシーンだけを切り取れば、非常に美しいラストだろう。あーーーエモいですね。
自分にとって映画好きの原点にもなった作品の完結編で、想像だにしない感情と感想を抱くことになるとは思わなかった。これからの人生で『新たなる支配者』を受け入れられる日がやってくるのだろうか。今のところ、その目処は立っていない。
確実なのは、今年観た映画の中で一番面白くなかったという事実だけである。
「ジュラシック・パーク」見直そう。