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感想『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』大いなる完結編が描き出す「功罪」はMCUの未来を照らすのか

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「ホーム」シリーズと銘打たれているトム・ホランドスパイダーマンは、マーベル・シネマティック・ユニバース(以下:MCU)という壮大なユニバースの中で描かれていること自体に意味がある。何を当たり前のことを……と思われるかもしれないが、それが彼の最大の魅力なのである。ベンおじさんはそもそも最初からいないし、良き理解者となる友達にも恵まれ、ヒロインと恋に落ち青春を謳歌する。スパイダーマンの成り立ちを、誰もが当たり前に知っているかのごとく描かず、MCUという大きなユニバースの中に溶け込ませたからこそ、歴代実写スパイダーマンの定石を覆す物語が生まれ、スパイディの新たな風を吹き込んだ。



単独作ではない「シビル・ウォー」でデビューを果たし、師として仰ぐトニー・スタークからヒーローの責任を説かれた「ホームカミング」、そしてアベンジャーズの一員として戦った「インフィニティ・ウォー」「エンドゲーム」、しかしミステリオの策略で全世界に正体がバレてしまった「ファー・フロム・ホーム」。そして全世界を巻き込んで立ちはだかる逆境の前にピーター・パーカーはどのような物語を歩むのか、MCU単独作にして完結編となるのが『ノー・ウェイ・ホーム』である。



今回は前作「ファー・フロム・ホーム」直後から幕を開ける。スパイダーマンの正体が露呈し無茶苦茶になった状況をリセットするために、ピーターは共に死線をくぐり抜けたドクター・ストレンジに助けを求める。そこでストレンジが発生させた魔術によって、並行世界(マルチバース)が開かれ、この世界にはいないはずのヴィラン達がピーターの前に現れて……というのが予告編でも出されている情報である。

 

ここからは厳戒令が敷かれているとおりなので、ネタバレ抜きに語ることが非常に難しい。以下では本編の内容に触れながら感想を書き残しているので、未見の方は特にご注意いただきたい。

 

 

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『ノー・ウェイ・ホーム』最大の見どころは、3人のスパイダーマンがユニバースを超えて共演を果たすことである。以前からどことなく噂は流れていたし、配信限定のドラマシリーズでも並行世界の概念が用いられたという下地の上に、ついに本格的なマルチバースが始動した。突拍子もないように思えるが前フリは少しずつ丁寧に積み重ねていたり、細かな部分にまで配慮が行き届いているのは、さすが天下のMCUである。プールの授業で心臓に遠いところから水をかけて徐々に慣らしていくような……そんなイメージでいると、お出しされる映像の強すぎる「圧」で完全にやられてしまった。



ポータルの奥から細身のシルエットが現れて、それがアンドリュー・ガーフィールドだと分かった時に、変な声しか出なかった。それと同時に「もうやめてくれ……」という気持ちが沸き上がってきた。それはつまり、トビー・マグワイアが登場することも意味しているから。本当にやるのか。なんとなく想像はしていた、分かっていたはずのことだった。でも絶対に叶うわけがないと思っていた。そんな「夢の共演」が目の前で実現している。意味が分からない。情報量の大洪水で息をすることすら忘れそうになるくらい、どうにかなりそうだった。この時の瞬間最大風速は「エンドゲーム」の比ではなかったと思う。



特に感極まって涙が止まらなかったのは、メイおばさんを救えず失意のどん底に落とされたピーターのもとへ、トビーとアンドリューの二人が声をかけるシーンだ。自分の気持ちなんて分かるわけがないと自暴自棄に語る彼に、トビーの口から「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉が投げかけられ、アンドリューもまた「僕も大切な人が救えなかった」という過去の悔いを吐露する。彼らの言葉に含まれているもの、その歴史を知っている我々が何を想起するのか、いや思い出さずにはいられない。感動や感慨深さを越えてしまい、当時どハマりしていた頃の記憶まで鮮明に思い出されてきて、まさにエモーショナルでぶん殴られた気持ちだった。

 

 

 

 

3人のピーターが一同に介した共演パートも、「こうあって欲しい……!!」という願望をどストレートに叶えていく夢のような映像だった。ウェブシューターの出し方が違うことに触れたり、それぞれのバースではどんなヴィランと戦ったのか、トビーとアンドリューはどんな人生を歩んでいるのか、時に笑いを含ませつつも、ヒーローであるが故に避けられなかった孤独や悲しみを、同じスパイディだから共有できたことによって、心の荷が少しだけ軽くなっていく彼らを見ていると、これもまた自然と涙が出てきてしまう。「僕らは恋愛が上手くいかないみたいだ」と自嘲気味に語るのはやめてくれ〜〜涙腺が崩壊するんだよ〜〜

 

 



ライミ版もウェブ版も、続編が制作されるかされないかの段階で企画が頓挫した経緯があるため、地に足をつけた状態で完結したわけではない。結果的に「スパイダーマン3」「アメスパ2」が完結作となってしまっただけなのである。しかし却ってそれが、今もどこかでピーターはスパイダーマンとして街を守っているという英雄譚で成り立たせている部分ではあるのだが、今回の『ノー・ウェイ・ホーム』はそんな彼らの「その後」を描き、まさか「救済」すら与えていく。



トビーは宿敵だったグリーンゴブリンの命を救い、アンドリューは「高所から落ちるヒロイン」というメタメタな状況でMJを救う。自分の犯した過ちや後悔にもう一度向き合わせることでトビーとアンドリューの抱える業(カルマ)から開放させる。それは同時に、同じ轍は踏ませないとする先輩としてピーターを導く役目にも繋がっていることに、グッと来ないわけがない。そして本来であれば分かりあえたはずのドック・オクやエレクトロとの会話が果たされたこと、これもまたトビーやアンドリューにとっては一つの「救済」なのだ。

 

 



「エンドゲーム」はMCUの作り出した世界観の中で、緻密に積み上げられた11年間の集大成としての「集合」であった。言い換えると、決まったゴールがそこにあって、誰も観たことがない頂きへ到達することに意味があったと言える。しかし今回の『ノー・ウェイ・ホーム』における3人のスパイディの共演は、さまざまな奇跡が重なり合って生まれた「集合」なのだ。もしライミ版が綺麗に完結していたら、もし「アメスパ3」が実現していれば、この映画はあり得なかったと思う。世界中に愛された二人のピーターが作品として無念に閉じられてしまったからこそ、いつか華を持たせてあげたいという想いの結実した結果だと自分は思いたい。

 

 

『ノー・ウェイ・ホーム』をもって、MCUのピーター・パーカー=スパイダーマンのオリジンは完結する。自分が招いた結果の尻拭いとして、親友や恋人、そして全世界から存在を消されてしまう。通信制高校のテキストが荷造り用の箱から顔を覗かせることに胸が痛い。しかしラストに登場する「彼」こそが、私たちの知っているスパイダーマンなのも事実である。明るく振る舞うのは悲しい過去を隠すため、手作りのコスチュームとマスクで正体を隠し、困っている人がいれば、どこからともなく駆けつける。孤独にヒーローであり続ける、それがスパイダーマンなのだ。

 

 

 



 

 

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というのが、『ノー・ウェイ・ホーム』を楽しんだ自分の感想である。ここで終わりたいのだけど、そうはいかなかった。「これで良かったのか?」という疑問符が最後まで拭えなかったのである。上に記している心の底から楽しんだ自分もまた本心であり、今から記す最後までモヤり続けた気持ちもまた本心なのだろう。

 

自分で言うのはあれだけど、相当めんどくさい感想である。



 

その最初のキッカケになったのが、メイおばさんの死である。自身の甘さから大切な人を巻き込んでしまい、その復讐心に駆られる。これはトビーもアンドリューも通った道であり、スパイダーマンの運命とも言える。この経験があるからこそ、「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉に重みが生まれるのである。劇中でもメイの口からその言葉が語られるように、彼女が概念的にベンおじさんの役割を担っている。



ここは解釈の違いとして割り切るしか無いのだけど、ピーターに力の責任を説くベンの役割を、MCUではトニー・スタークが担っているものだと思っていた。それが歴代シリーズと大きく違うところであり、MCUの中でスパイダーマンを描く醍醐味だと思っていた。実際のところ、トニーとピーターという師弟であり擬似親子のような関係性の中で、スパイディの通る道は描かれていたと思っている。ヒーローの本質を学び、共に戦うも悲しい離別を経験し、その後の世界で師の遺産を弄ぶ敵と対峙する。そしてこの先にある、これまでのスパイダーマンが通らなかった「正体が暴かれる」という事態に、ピーターがどう向き合うのかを楽しみにしていたのである。

 

 



その答えがユニバースを超えたスパイディの共演となるわけだが、そこでトビーとアンドリューが共演したことも、一つの不満点として繋がっていく。単独作品の3作目にしてオリジンを描くのであれば、MCUではないユニバースから呼んできた彼らに、ピーターを導く役目を任せて良かったのだろうか。トビーが語る「大いなる力には〜」の意味は感慨深いが、逆に捉えるとそう言わせるためにメイが命を落としたとも思えてしまう。



特に悲しく感じてしまうのは、トビーとアンドリューがいなければ、ピーターはグリーンゴブリンを前にして復讐心をコントロールできなかったことだ。MCUという大きな物語の中で、様々なヒーローと出会い、トニーの死を越えて、その意思を継いだにもかかわらず、それらは結局ピーターの精神的な「成長」には繋がらなかった。これもまたトビーに「救い」を与えるための舞台装置だったのか…と思えてしまうのだ。そして劇的ではあったけど見方を変えるなら、アンドリューがいなければピーターはMJを救うことが出来なかったのも、この延長線にある。つまりピーターは、MCUの中であっても別ユニバースの力添えがなければ、ヒーローとして一人立ちできなかったのだ、と。



MCUでトニー・スタークが一番好きなキャラクターなので、偏った色眼鏡をかけた上での意見だということを先に断っておきたいのだけど、やはり複雑なのである。彼の死ではピーターの成長に不十分だったのだと、公式に突きつけられてしまったわけである。前作「ファー・フロム・ホーム」で、ピーターはラボを使用して新しいスーツを作成した。ハッピーがそこにトニーの姿を重ねたように、ここでトニーの魂はピーターへしっかりと継承されたことにグッときたわけである。それも含めて彼の死では、ピーターを成長に導く要因にはなり得なかったのだなあ、と。

 

 

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とはいっても、「念願の実写スパイダーバース」と「MCUスパイダーマンの完結作」という両方を成り立たせるための脚本的なバランスは、とんでもなく高水準でハイクオリティの立ち位置にいるのは間違いない。この二つの要素がこの映画の強みであり弱みでもあるし、だからこそ素晴らしいし、だからこそ納得がいかないのである。

 

この映画の成し遂げたことを、タイトルに示した功罪として捉えるのであれば、今後のMCUは今作を分岐点として更なる拡大を見せるだろう。ユニバースがマルチバースへ、ここから始まったMCUスパイダーマンが、次に会う時にどんな成長を見せてくれるのだろうか。ラストシーンで悲哀とほんの少しの希望をまといながら、ニューヨークを飛び回る彼の姿が、唯一の救いなのかもしれない。期待もあり不安もありつつ、その時を心待ちにしておきたい。