本当の戦いはここからだぜ! 〜第二幕〜

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感想『ミッドサマー』、鬼才アリ・アスターの放つ”祝祭”とは何だったのか。

 

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『ヘレディタリー/継承』を観たのは、昨年の11月頃だったように思う。友人に「こんなにも気持ち悪い映画を観たことなかったから、感想を聞かせて欲しい。」と言われ、早速TSUTAYAで借りて鑑賞した。

 

 

観終わってからの動機が止まらず、シャツは汗でぐっしょり。今までに観たどのホラー映画よりも怖かった。ホラー映画によくある展開として、何かが起こる前触れとして画面から不穏な空気を漂わせるというのがある。この路地を進むと何かに出会うかもしれない、背後から何か気配を感じる、こうしたシーンの後にショッキングな展開が待ち受けていたりするものである。

 

しかし『ヘレディタリー』は、この不穏な空気というものを全編で漂わせて常に胸をざわつかせるのである。じめじめとした嫌な感じがずっと続く、これはもうほんとに気持ち悪かった。なので、急に音楽が流れたり何かが現れたり、おどかすような演出はほぼ皆無に近い。しかし、それらがあのエンディングに集約された時に、妙なカタルシスが生まれる。ぜひ映画館で観たかった作品だ。

 

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そんなホラー映画界に新風を巻き起こしたアリ・アスター監督の最新作が、この『ミッドサマー』である。この映画がホラー映画のジャンルというよりは「ホラーではなくファンタジー」「むしろ安らぐし癒される」といった評判が相次ぎ、まじでこれはどういう映画なんだ……と変な好奇心が高まっていくばかりで。

 

 

 

 

 

 

いや、あのね、怖いよ!!!!

 

めちゃくちゃ怖かったよ!!!!

 

この映画を観ている時の、なんとも言えない不穏な気持ちというか、胸の奥がざわざわする感じ。別次元の倫理観でぶん殴られている147分だった…。

 

以下、作中の展開に触れたネタバレ有りの感想です。ご注意ください。 

 

 

 

 

 

 

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とにかく不穏、不穏でしかない。画面の端々にさり気なく仕込まれた諸々が、小道具が、演出が、とにかく怪しい。何かしらの意味を持って映るそれらによって、張り詰める緊張と先が読めない不穏さ、どうにも居心地が悪い鑑賞体験が続く147分だったな、と。それとは対称的に、北欧の雄大大自然と突き抜けるように明るい開放的な画が映る。あまりにも真逆な対比にクラクラしてしまう。

 

 

一応、ざっくりとストーリーを解説しておくと…

両親と妹を亡くし傷心中の主人公ダニーは、その恋人のクリスチャン、彼の友人ら3人と共に卒業論文のテーマづくりの為に北欧のホルガという小さな村を訪れる。そこでは90年に一度の“祝祭”が開かれ、9日間の儀式が執り行われる。ホルガを訪れたダニーたちは、広大な大自然と風景に魅了されるが、この“祝祭”はただの祭りではなかった。そしてダニーたちは儀式に巻き込まれ、恐怖のどん底へと叩き落とされてしまう。

 

 

 

 

 

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前作『ヘレディタリー』と根本的に異なるのは、今作『ミッドサマー』では超常現象の類が全く登場しないという点である。幽霊もなければ悪魔も現れない。そこにいるのは全員が我々と同じ人間だということ。主人公たちを迎え入れる村の住人たちは、人が良さそうで快い人たちばかり。だからこそ、怖い。通じ合えそうで全く通じない。

 

 

ホラー映画の通説をひっくり返すかのように、本編はほぼ日中に展開される。夏至という事もあり、暗がりで物語が動くことが皆無なのである。そして、この映画の持つ“明るさ”の意味が、どこまでいっても不気味でしかない。明るいことがここまで怖く感じるなんていうのは、先にも書いたようにホラー映画の常識をひっくり返す凄いことなんじゃないか、と。

 

 

夏至という陽が沈まない期間は、その光によって全てが照らし出される。それはつまり、全てをありのまま映し出すことだと思っていて、特に夏至にもなると影の出る場所さえ少ない。そうした暗がりが存在しないというのは、同時に逃げ道がない、ことも暗示しているのかな、と。ありのまま映し出すというのは、隠せないのと同義で、広く明るく開放的な画が続くのに、その実は小さな村の範囲を逸脱しないという狭いコミュニティ。元を辿っていくと、主人公たちがホルガという村に足を踏み入れた時点で、もうどうすることも出来なかったということである。

 

 

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ホルガの住人たちは、彼らの持つコミュニティの中で育んできた伝統的な価値観や死生観に基づいて、神聖な儀式を行っているに過ぎない。さらにホルガという小さな共同体の中では、村民全員が“家族”という共通認識がある。血縁的なつながりも関係なく、個人の意思を全員で共有しようとする連帯意識のようなものが常に働いている。だからこそ、その儀式を執り行うことに村民全員が心血を注いでいるので、それが悪だとか道義に反するという認識すらない。説得なんてのはまるで通じないし、抗ったところでこの村にいる以上は為す術はない。土台となる価値観そのものが根本的に違う、というわけである。

 

 

その儀式の内容というのがね、これがもう凄いしえげつないので、とにかくキツい。この映画の残酷描写がどの程度なのか、気になる人も多いと思う。自分の体感としては、「R-15にしては結構エグい…」んじゃないか、と。元々R-18に指定されていたレーティングがR-15に下がったことで作品内容に影響するのではないか、と公開前にSNS周りで炎上していたことが記憶に新しい。実際のところ、これに関しては何の影響もなかったように思う。唯一ぼかしのある部分としては性描写のシーンだけ。

 

 

どの程度のグロさか、例えるのであれば『グリーン・インフェルノ』が近いだろうか。ただこれより血生臭さは感じないけれど、断面の写し方とか破裂した肉塊の描写は同程度と考えていいと思う。基本的に凄惨でえげつないシーンは見え過ぎなほどハッキリ映っていたし、気分が悪くなるほど鮮明であった。人が高所から飛び降りるとどうなるか、杵で顔面を潰すとこうなるよね、という観たくはない絵面をストレートに映す。それを仰々しく見せるというよりは、サラッと普通に流すのが怖い。

 

 

 

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そういった残酷描写も衝撃ではあったけれど、個人的にこれよりショックだったのが、村で処女の女性マヤが主人公の恋人クリスチャンと性行為に及ぶシーンである。村の乙女が来訪者の男性と恋に落ち一夜限りの関係を結ぶ、と書けばいくらでもロマンチックなお話が作れそうだけれど、『ミッドサマー』はそんなことにはならなかった。そもそも、その行為に及ぶまでにクリスチャンには色々な施しがなされていて、食べ物に陰毛が仕込まれているし、飲み物には経血が混ぜられていて、直前には何かを飲まされ嗅がせられてトリップ状態。始まる時にはほぼ錯乱状態にされてしまっている。

 

 

小屋に案内されると、マヤが横たわり、その周りには年齢層がバラバラの女性達が全裸で彼女を囲んでいる。いざ行為が始まるとマヤが手を伸ばすのはクリスチャンではなくて、後ろで見守る年増の女性。彼の後ろにも老婆がつき、腰をもっとふるように手を添えてくる。マヤの喘ぐ声に合わせて、自分の胸に手を当てながら周りの女性達も声を合わせていく。ここにエロさなんてのは微塵もなくて、性行為もただの“行為”でしかない。なんというか、セックスでさえも儀式を成功させるための手段でしかなくて、周りで女性たちが見守るのもコミュニティの共同体として一丸となっているから。

 

 

 

あまりにもアレすぎて、絶対今後も思い出しそう。

 

 

 

 

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ただこの映画の中で、結果として救われたのが主人公のダニー。村に訪れた序盤こそ儀式の内容に驚くも、彼らに降りかかる災厄とは裏腹に、ダニーは村人と交流を深めていく。彼氏ともギクシャクしはじめ、友達付き合いでも自分が常に気遣ってばかりだった彼女が、ホルガの住人と触れ合っていく度に“家族”として全てを受け入れられ、喜びも悲しみも全て分かち合ってくれる彼らと徐々に打ち解けていく。

 

 

アリ・アスター監督の描く作品は、題材がホラーやスリラーが多いのでそこに目が向きがちなんだけど、人間関係を描くときの繊細さがほんとに素晴らしいと思う。凄惨な映像とトリッキーな演出で物語を進めつつも、人間関係のほころびをドラマパートとして同時進行させていく。ダニーとクリスチャンの関係もほんの些細な所から意見の食い違いになって、一滴の水が大洪水へと繋がるような、そこに至るまでの裏打ちも考えられているので非常に計算高く作られているなあ、と。他にもグループに溶け込めない故の疎外感や、周りに合わせようとして逆に立場が無くなる胸がひりひり締め付けられる感じであったり、思い出すと嫌な気分になる演出が抜群に上手い。クリスチャンの友達がダニーのいないところで陰口を言ったり厄介者扱いするのも、ほんときつい。

 

 

昔からの友達は徐々に彼女から離れていき(もはや物理的な意味だけど…)、新天地で生まれ変わったように明るくなっていくダニー。この人間関係の細かな積み重ねがあるからこそ、あの“性行為”を目撃したことで一気に膨らみ、クライマックスにおける生贄の儀式でカタルシスが生まれていくのである。彼女が完全に生まれ変わったからこそ、満面の笑みを浮かべて燃えゆく彼氏を見つめる。終盤でやたら荘厳で感動的な感じのBGMが流れるのも、ホルガ村の儀式のフィナーレとダニーの精神的な開放を喜ぶことと思えば、見事にはまってしまう。

 

 

 

長々と書いてはみたんだけど、この映画をセラピーや救いがある、感動したとは言いたくない自分がいるなあ…と。ダニーは確かに救われたのかもしれないけど、これをそう呼んでしまえば、我々の生きる現実世界にこそ救いが本当に無くなってしまいませんか?それを諦めて放棄することを認めるような、上手くは言えないんですけどそんな気がする。

 

そんな堅苦しい言説を抜きにしても、この映画を観るという異次元のトリップ体験は、ぜひ劇場で確かめて欲しい。そして劇場全体に漂う、観終わった後の「な…何を見せられたんだ…。」という一体感を経験して欲しい。おそらく自分はもう一度、観に行きます。

 

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二回目を観終わるころには、こんな笑顔になっているのかもしれない。