※この記事は平成仮面ライダーシリーズで育った特オタが執筆した『シン・仮面ライダー』のネタバレありの感想記事だ。ブラウザの「戻る」ボタンを押すか、右上のウィンドウボタンを閉じて強制排除すれば、元のページに戻る。
ここでしか『シン・仮面ライダー』の感想を記せない。だから書いた。
君が望んでいたからだ。ネタバレありの感想を。
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昭和ライダーシリーズに触れてこなかった。
幼い頃に「仮面ライダーストロンガー」を一度見て以来、「なんなんだこれは・・・」と困惑したのをよく覚えている。当時リアルタイムに放送されていた平成ライダーシリーズとのギャップに、衝撃を受けたのである。ベタなセリフ回しや敵怪人の絶妙な緩さ、これらも含めて「子供向け番組」の様相を呈しているのが合わなかったらしい。足元を見られているような気がしたのだろう。我ながらめんどくさいガキんちょだったと自覚している。
自分にとっての昭和ライダーへのイメージは、ここ数十年の客演だけだ。「レッツゴー仮面ライダー」「MEGAMAX」などの集合系作品で、現役に引けを取らない活躍と格好良さを示しているのは、伝わっているし理解もしている。しかし画面に映るたびに、その場の空気が少し変わるというか、アンマッチな感覚を覚えてしまう。やはりあの時に抱いた違和感がなかなか拭えずにいた。
だからこそ『シン・仮面ライダー』に、何を期待すれば良いのか分からなかった。つまり観客としての軸が持てない。「シン・ゴジラ」「シン・ウルトラマン」の公開前は、その時に抱いていた緊張と不安で、精神的にどうにかなりそうだったことが懐かしくさえ思う。観る側の都合なんて勝手にせえや!!!という感じだが、期待の仕方が分からないというのは特撮好きを公言している身として、非常に複雑な気持ちであった。本当は観るのを止めようかと思ったけど、ある意味最もフラットに鑑賞できるかもしれない・・・という可能性に賭けて、劇場へ臨む。
Dolby Atmos版『シン・仮面ライダー』を観ます。 pic.twitter.com/ydYhI5FqvZ
— かずひろ (@kazurex1215) 2023年3月21日
Dolby Atmos版『シン・仮面ライダー』を観ます。2回目。
— かずひろ (@kazurex1215) 2023年3月26日
Dolby Cinema『シン・仮面ライダー』3回目いきます。また前から二つ目の席取ってしまった。
— かずひろ (@kazurex1215) 2023年4月1日
3回観た。
大傑作。
公開から二週間が経っているので、世間的な評判や反応はほぼ出揃っていた。フタを開けてみれば、もちろん賛否は極端に割れている。庵野秀明というクリエイターの固執なこだわりを受容できるかどうか、そこが最大の争点かのような勢いである。自分の経験上、賛否両論を巻き起こした作品に明るくないのだが、反芻させればさせるほど、好きなところばかりが思いついてくる。特に「仮面ライダー」だから擁護したいわけではないし、叩かれている反動で応援したくなったわけでもない。
ただただ純粋に、面白かった。
めちゃくちゃ面白かった。これに尽きる。
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今回の『シン・仮面ライダー』では、SHOCKERにより改造された本郷猛(池松壮亮)と彼を救い出した緑川ルリ子(浜辺美波)が政府直属のアンチショッカー同盟と手を結び、各地に潜伏した怪人達=オーグ殲滅のミッションを担っていく。立ちはだかる二人目のバッタオーグ=一文字隼人(柄本佑)も加わり、ルリ子の兄であるチョウオーグ=緑川イチロー(森山未來)による全人類を巻き込んだ”ハビタット計画”を阻止するために、仮面ライダー達は死闘を繰り広げていく。これがストーリーラインだ。
単発で完成されたエピソードを一つの映画にした構成は『シン・ウルトラマン』にも通じるところはあったが、今回の『シン・仮面ライダー』では、登場人物の内面や関係性がより強調されていたように感じる。印象がここまでガラリと変わることで、やはり作品の主が何であるのかを再認識させられた。ウルトラシリーズはウルトラマンと怪獣・異星人がメインであることに対して、仮面ライダーはやはり変身者が主役なのだな、と。
(↑公開当時の「シン・ウルトラマン」感想記事です。)
本郷猛と緑川ルリ子という性格も考え方も真逆の二人が、オーグとの戦いを通じて互いを知り、信頼関係を築いていく。単純な守る・守られるの関係に留まるのではなく、メンタルケア的にも双方向に互いを補う場面が見られたのは良かった。ルリ子が弱さを見せた時に、何も言わずに黙って胸を貸せる本郷の優しさ。そこには決して性愛に頼らない、男女の性差を越えたバディが確かに存在した。
そして、初代仮面ライダーを描き直す上で避けては通れない改造人間の悲哀。それを示すためにスポットが当てられたのは、「暴力性」である。怪力を振るえば肉が弾け飛び、血飛沫が辺りを染め上げる。闘争本能が刺激され、戦うことへの恐怖が消える。力を手にしても、どう使うかでただの暴力装置と化してしまうのだ。もう普通の人間に戻れないのであれば、頭のネジまでぶっ飛んでいた方が幸せなのかもしれない。なまじ人の心が残ってしまった本郷は、自分の四肢にこびりついた人殺しの感覚を戦いの度に思い出さなければならない。あまりにも、残酷。
池松壮亮が演じる本郷猛というキャラクターは、私達の知る”本郷猛”と大きくかけ離れていた。敵を倒す為とはいえ、暴力を振るうことは好まない。倒した敵さえも悼む、そんな普通の心優しい青年が、時に葛藤しながら「仮面」をまとって素顔を隠し、戦いに駆けていく。本郷猛という人物像をあえてオリジナルと真逆の造形にしたことで、改造人間という残酷さがより際立っているように思う。
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本郷猛という人物の造形と行き過ぎた力が持つ二面性、この時点である作品を思い出した。2000年に放送されていた平成仮面ライダーシリーズの1作目「仮面ライダークウガ」である。自分にとって初めての仮面ライダーであり、今でもオールタイムベストに大好きな作品であることは、恐れ多くも当ブログを読んでもらえたら少しは伝わるはず。
50周年記念を冠する作品として改めて初代を見つめ直す『シン・仮面ライダー』に、仮面ライダーの現代版として生み出された「クウガ」で用いられたトピックが盛り込まれたことに、非常に感慨深さを覚えるのである。正直、ここまでアプローチが似通っているとは思わなかった。
そう思えてくると、本編に出てくる様々な要素を片っ端から「クウガ」に重ねてしまうのは、我ながら悪い癖だなあと自省している。本郷の見せる人懐っこい笑顔は五代雄介の笑顔に似ているし(ぶっちゃけ髪型も似ている)、政府と協力してショッカーに対峙するのは警視庁とクウガの連携を想起させるし、ラスボスが第0号を名乗るし超能力で圧倒する姿なんてまんまだし・・・。まあこういうのは、与太話なので。
決して「クウガ」と似ているからではなく、その目指す方向性として庵野秀明が何を描きたかったのか。その思いを汲み取った時に『シン・仮面ライダー』で示された一つのテーマにどうしようもなく心を打たれてしまった。その根底にある想いを、素直に、真っ直ぐに、込められたメッセージを、心から受け止めたいと思わせてくれたのだ。
それは「優しさ」である。
自分の中で「仮面ライダー」には「孤独」が付きまとっていた。人には戻れない悲しみを「仮面」の中に隠して、世界に平和が戻るまで戦い続ける「孤独」の戦士。実際は仮面ライダーを手助けする仲間や戦友がいるし、それが仮面ライダーのアイデンティティだというのは理解できるのだけど、何よりもまず先行して重たい陰鬱な雰囲気を感じ取ってしまうのである。
今回の『シン・仮面ライダー』でも、そうした原典が持つ陰鬱な雰囲気を絶妙にまとっており、事前に公開されていた予告編からもその印象を受けた。冒頭のクモオーグ戦が顕著なように、戦闘員の流血描写、オーグメントされることの不気味さや怖さ、そして明確に描かれる人間の死。仮面ライダーの初戦であり、非常にヒロイックなシーンでもあるのだが、TV本編の再現度が高かったので、「この雰囲気で進むのか・・・??」という不安がよぎったのが本音である。
しかし、驚いた。物語が進んでいくに連れて、映画そのもののテイストが徐々に変化していく。曇天の中に暖かな陽射しが差し込むように、登場人物たちのドラマが有機的に絡み合っていくのである。その中心にいたのが、本郷猛だ。
「僕は人を守りたいと思う自分の心を信じる。」SHOCKERと戦う決意を固めた本郷のセリフだ。自分の手にした力に怯え、たとえ人間でなくなったとしても、誰かを守りたいという心だけは屈しない。本郷の愚直ながら力強い「優しさ」を、ルリ子は受け取った。その「優しさ」がルリ子に希望を与え、一文字隼人という第二のライダーへ継承された。その一文字が今度は本郷の手助けとなり、共に戦う戦友となる。本郷の不器用な「優しさ」が巡り巡って、彼に関わった人たちを変えていった。
そのドラマが結実した先に、クライマックスの泥仕合が展開される。他者を信じられない似た者同士だった本郷とイチロー。自分を変えようとするのか、世界を変えようとするのか。たったそれだけの違いだが、本郷はイチローに、自分と同じ面影を感じたのかもしれない。理不尽に蹂躙された苦しみや悲しみ、同じ辛さを味わっているからこそ、最後まで本郷はイチローを救おうとした。
「僕には人が分からない。だから知りたいと思う。」
そんな言葉が本郷から溢れだす。心から絞り出したかのような叫びに、自分はどうしようもなく揺さぶられてしまった。取っ組み合いながら這いつくばり、足掻いて、足掻きながら手を伸ばす。その姿はまるで格好良くなかった。しかし、自分をさらけ出して魂をぶつけあうその姿は紛れもなくヒーローだった。
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正直、完成度の高い作品だったとは言えないだろう。説明不足な場面や持て余している設定も多々あった。組織というより個人のエゴを肥大化させたSHOCKERの解釈には唸ったが、特にプラーナは分かりづらさの最たるものだろう。おそらく仮面ライダーにおける「魂」「継承」を可視化させるための最もらしい理屈のようなものだと理解しているが、もう少し交通整理をして欲しかったのが本音だ。
ただ。あのエンディング。一文字へ本郷のプラーナを内蔵したマスクが受け継がれ新1号が誕生したシーン。悲しみを隠して戦うための象徴だったマスクに、被れば「優しさ」を感じる解釈を与えたこと。そして澄み切った青空のもと、正真正銘の一心同体になった新1号が、新サイクロン号と共に走り去っていくあのラストである。美しすぎる。あれを見せられて心が震えないわけがない。血生臭く暗いオープニングで始まったこの作品が、晴れやかで爽やかな風を感じる清々しいエンディングを迎えるとは、夢にも思わなかった。あのラストシーンの全景を、自分はこの先の人生で、何度も思い出していくのだろう。やられてしまった。
正義、強さ、格好良さ。それらを全て超越した先にある優しさ。これこそがヒーローにとって一番必要なものであり、それを伝えようとした歪だけど不器用で真っ直ぐで誠実なメッセージを、送り届けてくれた心意気をしっかりと受け止めたい。
『シン・仮面ライダー』大好きです。